ジュゴンが生きる沖縄の海で -自然とともに生きる沖縄の人々の暮らしと願い-

他県で暮らすことを余儀なくされた人々の生活とは?

2011年3月に起きた未曾有の事故。福島原発事故。テレビに映った水素爆発の映像は誰もが息を飲んだことでしょう。
私たちの今後はどうなるのかと不安と恐怖を感じた人も多くいると思います。 どうしたらいいのかわからず、とりあえず、日々、口にする食べ物を気にした方もいるのではないでしょうか。

あれから4年。
福島から離れた地域ほど、どこか人ごとのように、そして過去の話のようになってはいないでしょうか。
福島の原発周辺ではいまだに家に帰れない人々が多くいます。原発内では人が近づけないほどの放射線量を放出しているために作業が手付かずのところも多くあります。
ニュースでは報道されないけれど、深刻で危険な状況がまだまだ現地では続いているのです。
大量の汚染水が地下や海に流れ、放射能物質による汚染は続いています。にもかかわらず、ふたたび原発再稼働の動きが出てきています。
このような状況なのに安倍首相の「コントロールされている」という言葉は、どのようなことを指しているのでしょうか。

沖縄の海

   ■事故前の福島第一原子力発電所(東京電力HPより)

日本は世界三位の原発保有大国

日本はアメリカ、フランスに次ぐ、世界第三位の原発保有大国です。原発事故前までは、なんと54基も稼動していました。
日本で初めて原子炉が使われたのは1957年のこと。茨城県東海村で稼動が始まりました。

それから42年後の1999年、日本で初めての原発事故がこの東海村で起きました。事被爆者667名、重傷者1名、そして死亡者2名が出ました。
事故当時、JCO(日本原子力発電)や親会社社員は早々に避難してしまいました。国や県による住民への対応は遅く、当時の東海村村長が独自の判断で村の住民に避難要請を出しました。

東海原発1

   ■人家が密集するすぐ近くに、東海原発発電所がある。現在は稼動停止。

日本発の原発事故の体験

東海村事故当時、私は実家のある茨城県水戸市にいました。
水戸市と東海村はほんの20キロの距離です。福島県の原発事故の距離で考えると、20キロは楢葉町と広野町の境あたり、浪江町の真ん中あたりになります。これらの場所は、現在も帰宅困難区域になっているところです。もし、東海村での臨界事故がもっと大きな事故だったら・・
東海村原発の臨界事故が報道されたのは事故が起きてから、かなり時間が経っていたと記憶しています。
その時のニュースの映像は生々しく、被爆して担架で運び出される方の腕が、白いシーツからだらりと下がっていたのを今も覚えています。(その後、その方は死亡。ニュースの現場映像には、モザイクがかけられるようになります) あまりの衝撃的な映像に、私は、知人の安否が気になりました。
彼は、東海村の原発研究所の中にある施設に勤務していたからです。私は連絡しましたが、繋がらず何の情報もありませんでした。ようやく知人の無事を確認できたのは翌日以降でした。その知人によると、事故直後、外部との連絡、事故の状況を口外することを上部から禁止されたそうです。とにかく無事でほっとしたものの、腑に落ちないものが残りました。

東海原発2

   ■東海原発発電所。原子炉はつねに水で冷却する必要があるため、海の傍に建設される。
    たとえ事故が起こらなくても、放射能汚染が懸念される。

まだ誰も放射能の危険性を知らなかった

福島の原発事故が起きたときは、放射性物質の名前や放射線量の単位であるマイクロシーベルトやミリシーベルトという言葉がテレビや新聞に一斉にでました。はじめて聞く単位だった人も多かったと思います。
ところが、1999年の臨界事故のときはほとんどニュースにとりあげられることもなく、まして放射能の話など皆無でした。東海村から20キロに住んでいた私も放射性物質を考えることもなく、まわりの住民たちも「自分たちのからだに危険があるかも」、という認識は薄かったように思います。
情報があまりなかったからでしょうか。 原発や放射能の危険性について、まだまだ意識が低かったのです。ですから、ほとんどの人が、原発事故が怖いものと思っていなかったのです。

原発事故の後は、もう以前の生活には戻れない

普段の私たちの生活の中では「原発があったら、なかったら」と考えることもなかなかないと思います。しかし、原発に何かが起きたときではすでに遅いのです。そのときにはこれまでの日常生活や自然環境には二度と戻れません。それが今回の原発事故であり、教訓として忘れてはいけないことではないでしょうか。

放射能物質は安全なものではなく、人にも環境にも大変危険なものなのです。 すでに済んだ話ではなく、これからも私たちにはもちろん、未来の次世代へ影響を与え続けることです。決して、他人のことではなく、自分や家族、そして私たちの生きる環境全体に関わることだということを忘れてはいけません。
ましてや日本は火山国であり、それによる予測不可能な地震も十分起こりえる国であることを踏まえれば、「原発の安全稼動が可能」と考えるのはおかしな話です。

報道されていない大津波の状況

福島県双葉町から茨城県で生活をしているMさんの家族のお話を聞くことができました。
それは想像を超える、報道されない部分の貴重な話でした。 (現在、双葉町の96%は帰還困難区域です。)

2011年3月11日。
その日、Mさんはいつもと同じ朝を家族と過ごし、それから出勤しました。出勤先は、自宅から4km先にある老人ホームです。普段と変わらない日常でした。
そして14時46分、鈍い地響きとともに震度6強(マグニチュード9.0)を観測する地震が発生したのです。 Mさんが老人ホームに入居している方たちの対応をしているなか、まもなく大津波がやってきます。幸いMさんの勤務する老人ホームは、高台にあり津波の被害は免れました。ホームには自家発電設備もあったので、2日後には自衛隊のヘリ等で入居者の方たちは全員、無事に避難することができました。

しかし、かつてないほどの大津波は、Mさんの先輩や息子の教師など、多くの知人の生命を奪いました。 原発事故発生後、救助を待つ数多くの人々が置き去りにされました。そのほとんどは、凍死で亡くなりました。Mさんの知人の妊婦さんは、木にしがみつきながら息耐えていたといいます。

非難命令ひとつで、二度と家に帰れなくなる

津波から免れたものの、Mさんが周囲の異変に気がついたのは、町長や町の関係者、自衛隊が防護服を着ていたのを見たときだそうです。
地震発生からおよそ14時間後、3月12日午前5時に避難命令がでました。Mさんたちは二本松のある体育館に避難しました。そのときはまさか家に帰れなくなるとは少しも思わず、持っていたのはいつも使っているバッグ1つでした。
しかし、この避難命令は原発事故による放射能汚染のためであり、Mさん一家はこのまま家に帰れなくなってしまうのです。

Mさんたちは体育館に着くと、双葉町から避難していることがわかるように胸にシールを貼られ、別部屋のようなところに割振りされました。
Mさんたちの体育館での避難は、そのまま3週間続き、その後4月上旬にまた別の避難先に移動することになります。5月中旬には双葉町に立入り禁止命令が出ます。立ち入った場合は罰金、また所有物などカウンターで検査をして、もし数値が出たら焼却だったそうです。

ストレスの多い仮設住宅の生活

そして6月中旬にMさんは、仮設住宅に入ります。
着の身着のままだったMさんたちに服を支援してくれたのはユニクロだったそうです。そして地元の方たちからの服などの支援もありました。
しかし地元の方がくれた服をMさんが着ていたときに、仮設住宅に来ていた地元の方が「あ!あの人の着ている服、私が寄付したのだ!」と言われたときは何とも言えない気持ちだったそうです。

仮設住宅の生活は翌年の8月まで続きます。
先の見えないここでの生活について、Mさんは「1日が100時間にも思えた」そうです。仮設住宅では隣の生活音や咳までが筒抜けです。
田舎では2世帯3世帯が一緒に住むという状況は都会より多くあります。しかしそのぶん、家も大きいのです。仮設住宅はせいぜい2部屋。家族はばらばらになり、狭い部屋にそれぞれ暮らさざるをえなくなってしまったのです。

他県への移住を決意

やがてMさん一家は親戚のいる茨城県に移住することを決めました。 双葉町や立入り禁止区域の家の90%以上がねずみに荒らされ、家の中には牛や鹿などの動物の死骸があり、立入り禁止が解除されても住める状態にないといいます。
平成29年までに国は除染を終わらせ町に住民を戻そうとしていますが、住む家もそんな状態では生活が成り立たないのは目にみえています。
Mさんは新しく茨城県に家を持つことにしましたが、双葉町の家がなくなってもローンが消えた訳ではないので今でも住宅ローンを払い続け、茨城県の家と2件分ローンを抱えています。

悪い夢の中にいるように思える日々

Mさんは2011年3月11日から今まで、まだ悪い夢の中にいるように思えるときがあるそうです。
大津波がくる3時間前に会った人が流されて亡くなり、何が起きているのかもわからないまま避難せざるをえなく、避難先では嫌がらせや心ない言葉を浴びせられ、生まれ育った土地を離れて新しい生活を送ることになってしまった。 ふと、「どういてここにいるのだろう」、と未だに受け入れられない自分がいるといいます。
Mさんには2人の息子さんがいますが、下の小学生の子はもともと明るく活発な性格でしたが、様々なストレスにより学校に通えなくなるほど塞ぎ込むようになってしまいました。

そして福島ではほぼ毎日流れる原発のニュースも、茨城に来た途端、目にしなくなったと言います。隣の県でさえこうなら全国の関心はどれだけ低いものなのだろうと思ったそうです。

双葉町から2013年12月まで埼玉県加須市の旧高校校舎に避難していた人たちがいます。
避難から800日を超えたとき120名の人たちがまだそこで暮らしていました。そこで亡くなった方々もいます。

毎日、届く出来合いのお弁当。
最後までそこにいた男性は、映画「フタバから遠く離れて」(舩橋 淳監督)の中で「避難所での暮らしは犬や猫と同じ生活だ。食事を出していればあとはどうでもいいと思っているのか。これからどうやってどこで暮らしていけばいいのかわからない」と静かに語っていました。
そしていまだに仮設住宅で暮らす人たちも多くいるのです。
すでに4年。「仮設」住宅ではなくなっています。建物自体、仮設目的で作られたのですから補修が必要になっている建物が多くあるのです。

ある日突然、一変してしまう暮らしを想像できますか。
爆発事故はありえないと思っていました。しかし、実際に起きてしまったのです。

福島の原発事故が、ヨーロッパの国々に政策を転換させた

ドイツのメルケル首相は、ドイツが脱原発方向に動いていたのに、地球温暖化対策として原発稼働に政策を変えた人物でした。
ところが2011年に起きた福島原発事故を受けて、メルケル首相は政策を転換。17基のうちの8基を停止させ、2022年までに脱原発することを宣言しました。脱原発に至ったのは多くの有識者や民意の意見があり、それをメルケル政権が真摯に受け入れ、実現させたからといわれています。
さらにまたイタリアでも原発廃止に向けて動きだしました。

遠くヨーロッパで脱原発宣言がありながら、残念なことに、当の事故の起きた日本では脱原発とは正反対の道を歩もうとしています。
そして今、国民のどれほどの人が関心を持っているでしょうか。福島原発の現在の状況、いまも続いている環境汚染、福島から避難した人たちはどうしているのか、また今後の原発について考えているでしょうか。目の前の経済活性のかけ声が、将来、この日本で安心して住める地域をさらに狭めてしまう原発の危険性を忘れさせようとしています。

原発の影響は、これからも消えることはない

なかなかニュースに出てこないことですが、放射能の汚染マップと同じ場所での甲状腺がんが少しずつ増えています。
ある大学の教授は福島の原発事故と事故後の無機能さに「史上最悪の環境汚染事故であり史上最悪の国家犯罪」と話しています。
2016年、春には企業へのサポートが、そして2年後には住民への保障は終了する見込みです。

家はあっても放射能汚染のためにばらばらに暮らす家族、避難することで全国に分断されてしまった住民の方たち、生態を変えられつつある自然、すべて元には戻すことはできません。
これだけの経験をしながら、同じことを繰り返すほど愚かなことはないと思います。
私たちは自分たちの生活に本当に必要なもの、要らないものを真剣に考えるときにきているのではないでしょうか。

問題が山積みのまま、何故、原発は再稼動に?

地元からの猛烈な反発、そして多くの反対意見があるにも関わらず、川内原発では再稼働が始まりました。
今でも福島原発事故により暮らしに影響を受けている多くの人たち、報道されなくなってきている現地の状況、そして世界の原発廃止の動きと逆行している日本。
福島原発の問題がまだまだ山積みだというのに、自然も住民の暮らしも壊されたままなのに、新たな危険を犯すというのは、あまりに無責任すぎるのではないでしょうか。

そして私たちひとりひとりにも、これからも続く未来のために、真剣に考えなくてはいけない責任があるのです。
他人ごとではないのです。 すでに原発事故により、数万年後の地球まで影響を残してしまいました。
これ以上、未来の地球を壊さないためにも、いま私たちができることを、自分たちの暮らしや大切な人を守るためにも考えていかなければいけないのではないでしょうか。

取材・文 鈴木順子

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